砂糖を焦がせば薫る日々

サイト更新と読み物を少々

04月« 2017年05月 /  12345678910111213141516171819202122232425262728293031»06月

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『ソシャゲライタークオリアちゃん-恋とシナリオと報酬を-』の感想

久しぶりにライトノベルを読みました。

いや、今でもたまに読んではいるのですけど。
私が読むライトノベルは、どれも作家買い・シリーズ買いしたものばかりで、最近の作品は全然読んでいません。
あ、別にそれは昔の方がよかったというわけではなくて、新しいものに手を出すことに臆病なだけです。
もちろん過去の名作に触れて育ってきた感性がある以上、昔のものを特別視してしまうところはありますが、読まずに批判するのは私の本意ではまったくないですし、最近の作品でも興味のあるタイトルはいくつかあるので(まほいくとかグリムガルとか……って言うほど最近でもないかな)、機会があればまたいろいろライトノベルに手を出してみたい気持ちはあります。
とはいえ、それはいずれの話であって、現時点では全然読んでいません。

ええと、要するに、久しぶりに新作のライトノベルを読みました。
『ソシャゲライター クオリアちゃん-恋とシナリオと報酬を-』です。

ゲームシナリオライターの下村健さんの初めての小説ということで、発売前から楽しみにしてました。
下村さんがシナリオを手掛けたソーシャルゲームは、このブログでも何度か言及している『チェインクロニクル』以外にもいろいろありまして、私はチェンクロ以前から下村さんのファンでしたから、これも一種の作家買いといえるのかもしれませんが、やっぱりゲームシナリオと小説は全然違うものなので、下村さんの「小説」が読めるということにすごく期待していました。
そういうわけで以下感想です。








※ネタバレ注意。一応改行しておきます。





おもしろかったです。
帯やらサイトの宣伝文句では「業界あるある満載!?」「シナリオライター成り上がり成功譚」というような文が並んでいて、感想やレビューでも「暴露本」という扱いが大きかったように思います。
それはたしかにその通りで、私も読んだとき「え、そんなの書いちゃって大丈夫なの……?」と思わず心配になってしまうような(正直ちょっと引いてしまった)話が満載だったのですが、でもそれはたぶんこのお話の一部分、一側面でしかありません。
業界の内情を暴露するだけなら小説仕立てにする必要はありませんし、ノンフィクションとして世に出した方がいいはずですから、そこは主題じゃないのです。
あとがきに書いてあったように、ソーシャルゲームを作るにあたってのハウツー本を出したい、というのが率直な動機なのでしょう。
しかしそこはシナリオライターですから、ただのハウツー本ではなく、楽しく読めるハウツー本を書きたい→シナリオライターだから物語も書きたい→小説仕立てのハウツー本を書こう→クオリアちゃん書くよ! という、ちょっとひねった経過をたどって作られた物語が、本作というわけです。
お話の流れ自体はお約束も踏まえていて非常に王道です。主人公が、想い人の後を追いかけて、新しい世界に飛び込んでいくお話。その新しい世界が、今作ではソーシャルゲーム業界となっております。
とはいえ作中で触れられている部分はシナリオライティングがメインで、ソーシャルゲームの細かい仕組みにまで触れられているわけではありません。そこまで踏み込むにはどう考えてもページ数が足りないので、続きが出たらもっといろいろな部分を見せてくれるのかもしれません。

まあ、それはともかく、シナリオの話です。
ゲームシナリオというものがどのような流れで生まれ、ゲームに組み込まれていくのか。それを章ごとに慣習やメリット、問題点を挙げてわかりやすく説明していくので、ハウツー本として非常にわかりやすいです。ただ、読みながら「本当にこんなんで大丈夫なの!?」と困惑するくらいギリギリというかいっぱいいっぱいというか、かなりヤバい業界である描写がインパクト絶大で、これだけですごくおもしろいです。
そういう裏話のインパクトが強すぎて、肝心のストーリーがちょっと印象薄くなっているような気もします。話の流れは、重ねて言いますがすごく王道で、私は好きなんですけどね。新しい業界に入って、いろいろなことを吸収して、成長しながらも挫折を経験して、周りの助けを得て乗り越えていく。そういうストーリーです。

ただ、ひとつ気になったのが、アンバランスな点。
現実の職業を題材にしたお話は、やっぱり現実にあるものということで、私たちと同じ世界に根差したもの、つまりは地に足の着いた話の展開や設定になることが多いのですが、クオリアちゃんは地に足が着いている部分と着いてない部分が混在していて、すごくアンバランスな印象を受けます。
どういうことかといいますと、このお話には超能力・異能力が出てくるのですね。
いや、比喩とかじゃなくて、ホントに。
主人公の想い人、クララさんは4姉弟で、長女・クララ、長男・オーガ、次男・リーヤ、次女・アイナの4人がコウを取り巻いてドタバタを繰り広げるのですが、4姉弟は全員異能力持ちなのです。
リーヤくんとアイナちゃんはまだ現実的に理屈をつけて説明できないこともないですが、クララさんとオーガさんは完全にSFとファンタジーに属する能力なので、ここで私たちの現実とは乖離します。それ自体はライトノベルでよくあることなのですけど、扱う問題が「ソーシャルゲームのシナリオライティング」という現実的なものなので、明らかに違和感があるわけです。
でもその違和感は作中でもツッコミをされまくっているので、狙って描かれた違和感だと考えられます。
おそらく、今後の話につながる重要な伏線や設定として、この異能力設定は盛り込まれたのではないでしょうか。
続編があるかどうかは売れ行き次第なわけですが、続きが出た場合に必要になってくるのでしょう。おそらくは「なぜ」そんな能力を得たのかという理由とあわせて。

まあ、ライトノベルらしさを求めてぶっ飛んだ設定を盛り込んだ、と単純に考えることもできますが。
著者の下村さんは結構設定やらなにやらにこだわる方なので、無意味に設定を盛り込むことはしないんじゃないかなあと思います。
そういえば、この川口4姉弟は、下村さんが指揮を執るシナリオライター集団『チーム・クオリア』のイメージキャラクターでもあるのですが、それが公開されたのってこの『クオリアちゃん』発表よりはるかに前なのですよね。
もしかしたらお話の案はすでにそのころから出来上がっていたのでは……というわけで、ますます無意味な設定とは思えません。

アンバランスといえば、このお話は普通のフィクションよりもかなり密接に現実とつながっています。
作中で実在のゲーム・漫画・アニメ・映画・小説のタイトルがこれでもかと出てくるのです。
普通伏字とか一字違いのパロったタイトルでお茶を濁すじゃないですか。そういうの一切ありません。当たり前のように『デレマス』とか『モンスト』とか出てきます。
たぶんこのお話を現実と地続きにしたいという意図があったのでしょう。そうすることで「このお話のシナリオライターの現状が決して誇張やハッタリではない」ということを表したかったのではないかと。それはちょっと好意的にとらえすぎでしょうか。
もちろん「好きな作品のタイトルをそのまま使いたかった」というのも理由の一つにあるかもしれません。思い入れのあるタイトルをどうしても作中に出したかったのかもしれませんね。残念ながら、私の知らないタイトルもありました。でも、これをきっかけに知らない作品に手を出すという人もいるかもしれません。新本格を読んで古典ミステリを漁りだすような感じで。
あと、鎌倉が舞台なので、鎌倉の名所とかもいろいろ出てきます。他にも主人公の住んでいる場所が結構細かく設定されていたり。(最寄り駅の下高井戸まで徒歩数分のアパートとか)

このアンバランスさは、人によっては受け付けない場合もあると思います。結構読み手を選ぶかもしれません。
ついでに言うならやっぱり男性向けかなーと思います。作中で主人公が担当する作品が基本的に美少女ゲーム、いわゆるギャルゲーなので、どうしても男性読者を想定しているように見えてしまうかも。(実際は、下村さんがラブコメが好きだからというのが大きな理由で、男性向け女性向けというのは特に考えてはいないと思います。そんなのどちらの方にも読んでもらいたいに決まっているわけで)
それでもいろいろな試みがなされていて、私はこのお話、おもしろいと思いました。元々下村さんのシナリオが好きというのを差し引いても、好きだと思います。まっすぐなところが好きなのかもしれません。そのくせ設定が二重構造ラブコメになっていたりして凝っているところが好きなのかもしれません。
できれば続きが出てほしい作品です。もっと売れてー。



以下は適当に書き連ねます。

作中で出てくる『初恋メモリーズ』は、下村さんが昔手がけていた『えんむす』というゲームを元にしていると思われます。
えーと、私が入院中に暇つぶしでプレイしていた、ガラケー時代のソーシャルゲームですね。
なんでそれがわかるかといいますと、キャラクターデザインが同じむらたたいちさんで、キャラの配置や設定も非常に似ているからです。
たぶんプレイしたことがある人なら、すぐにピンと来るんじゃないかと思います。(私だ)
入院中は本当に暇な時間が多かったので、携帯を使ってちまちま小説を書いたりゲームをしたりツイッターを見たりしていました。
その中でたまたま遊んだゲームのシナリオライターが下村さんで、それからずっと追いかけさせてもらっています。
その間に下村さんはどんどん有名になっていったので、ちょっとびびりながら、今でもチェンクロとか楽しませてもらっています。
ガラケー時代には他にも『ナイプリ』とか『Re:まぜ』といった、もはや存在の形跡すらろくに残っていないゲームも遊ばせてもらったのですけど、下村さんのシナリオは当時から一貫してまっすぐなものが多かったです。
そのあたりが私の心に刺さったのかもしれませんね。
あと、幼馴染みをちょっとひいきにするあたり。下村さんも幼馴染み学派か……?(そこか)

んー、だんだんクオリアちゃんの感想じゃなくて、下村さんへの想いを連ねる感じになってきましたね。
でも、そこは意外と大事なところで、過去作に触れている人がクオリアちゃんを読むと、「お、これは」と思うようなポイントが多いのです。
岸部露伴じゃないですけど、想像だけでお話を生み出すわけではなく、何かを体験して得たインプットを大事にしてアウトプットを行うのが下村さんの作品作りの特徴です。
下村さんはツイッターでも過去にプレイして心に刺さった作品のタイトルを挙げることが多いのですけど、開高健や横山秀夫のような骨太の小説から、SF系のアニメ、美少女ゲームまで、本当に様々な作品を挙げるので(そこはクオリアちゃんの主人公・コウに重なる部分ですね)、そういった過去の名作に触発されていろいろなシナリオを生み出してきたのでしょう。そうしてシナリオライターとして携わってきた作品が経験として積み重なっていって、また新しいものを生み出す。そういうサイクルができているように感じられます。
そういうわけで、どうしてこういう書き方がされているのだろうとか、こういう展開になるのだろうとか思ったら、それは大体下村さんがかつて体験したことや触れてきた作品、手がけてきた仕事がベースになっているものだと考えてもいいかもしれません。
そういう積み重なりが見える点でも、下村さんの作品を追いかけてきてよかったと思う小説でした。



やたら長くなりましたが、『ソシャゲライタークオリアちゃん-恋とシナリオと報酬を-』の感想でした。
思ったことをそのまま書き並べているだけなので、雑然として読みにくいかもしれませんが、結構想いは込められたと思います。
ええと、改めて。
下村さん。小説発売おめでとうございます!



かおるさとーでした。
スポンサーサイト

年始の挨拶(ゲームとか格闘技とか創作とかいろいろ)

あけましておめでとうございます。

毎年年末に更新していた当ブログですが、昨年はそれができませんでした。
忙しかったのも確かですけど、単に書くことを何も思いつかなかったのも理由の一つです。
普通に一年を振り返れば、昨年は本当に何もしなかったように思います。
リアル生活ではいろいろ変化があったんですけどね。創作方面では本当に何もできなかったように思います。
こっそりといろいろ書いてはいるのですけど、おそらくこちらでは公開しないと思いますし。

で、これは私がいけないんですけど、あれですね、スマホゲームにかかりっきりなのがよくないように思いますね。
私がやっているスマホゲームって、チェインクロニクルとアイドルマスタースターライトステージの2つが主でして、チェンクロはたぶんずっと続けていくんじゃないかなと思います。デレステの方は、実はちょっと疲れてきています。
いや、子供のころは「ゲームは一日1時間」という標語(標語か?)に代表されるように、1プレイの時間がある程度決まっているのと同時に、リアルの時間とリンクしていないから、自分の気が向いたとき・好きなときにプレイするものだったと思います。たぶんそれ自体は今もあんまり変わっていなくて、コンシューマーゲームはそういうものだと思うんですけど、スマホゲームとかブラウザゲームとかはそうじゃないんですよね。
なんというか、時間を使わせるような仕組みにしているんですね。
期間限定イベントと、ログインボーナス。
これがあると、なんだか毎日やらなきゃ損してしまうような、そんな気分になってしまうんですね。あ、掛詞ですね。損な気分ですね。
でも別に誰からも強制されているわけじゃないんだから、もっと気楽にやっていいはずなんです。それができないのは、やっぱり私の意志が弱いからであって、もっと自制とか自省とかすべきなんです。
えーと、つまりですね、ちょっとゲームから離れてみるべきではないかということです。できるかどうかはわかりませんが、デレステやめようかなーと思ったり。でもチェンクロはやめないと思います。下村さんの出世作ですし、思い入れがあるから。
あ、下村さんといえば、『ソシャゲライタークオリアちゃん』の感想記事もそのうち上げようかなと思います。久しぶりに読んだライトノベルで、なんというか、すさまじいお話だったので。



年末の格闘技のことを。
ボクシング、キックボクシング、総合格闘技、様々な競技格闘技がある中で、私が一番注目していた選手は、“神童“那須川天心
キックボクシング界ではいまや飛ぶ鳥を落とす勢いの彼ですが、キックボクシングという競技自体が非常にマイナーな競技なので、一般の知名度はほぼ皆無。
しかし、彼は間違いなく日本キックボクシング史上最高の選手です。
何が恐ろしいって、まだ18歳の高校生というのが恐ろしいんですけど、試合を見たらその強さを感覚で理解させられるんですよね。たぶん格闘技に詳しくなくても、見たらわかるんじゃないかな……。物が違うというか、住む世界が違うというか、常識が通用しないところにいる気がします。
12月は3試合をこなしました。
さらっと書いちゃいましたけど、この時点で異常すぎる。なんでこの子、年末に2試合もこなしてるんだろう……しかも勝つし。
今年どこまで飛躍するか楽しみです。

ボクシングだと、小國以載選手が無敗の王者グスマンに勝った試合がすばらしかったですね。
下馬評では圧倒的不利の予想が多かったですけど、自分ができること・やるべきことを最後まで遂行する一途さと、勝負にかける気持ちの強さ、その中で高揚せずクレバーに戦う冷静さが小國選手にはありました。3ラウンドにダウンを奪った後も浮足立つことなく、無闇に攻めることはしませんでした。ちゃんと試合の様相が、全体の流れが見えていたのです。
ダウンを奪ってもグスマンの強打はまだ残っている。ここは無理に間合いを詰めずに、足を動かして強打を封じ、距離・間合いの差し合いを制していくのが正しいと判断して、実際にその通りの展開にしてみせた。あそこで勝負に出ていたら、カウンターをもらっていたかもしれません。実際、グスマンのパンチの力はまだ残っていましたしね。
ツイッターでもつぶやきましたけど、「”特攻”は愚者の選択で、王のすることではない」と思います。小國選手はクレバーに、賢く、勝負に勝った。それはリアルな勝負の世界に身を置くがゆえのリアルな選択と、それを遂行できる勝負師の心の強さがなしえた結果だと思います。
小國選手、世界王座獲得おめでとうございます!



創作について。
〈古典部〉シリーズの二次創作熱がそこそこ高まっているので、何か思いつけば書きたいです。
ただ、私は原作にある程度沿っていないと二次創作ができないところがあるので、新刊「いまさら翼といわれても」を改めて読み直して、既刊も全部読み直して、解釈を整理整頓する必要があります。
〈小市民〉シリーズもそうです。秋期まで……いや、巴里マカロンまで読み込んで咀嚼した上で、書かないといけません。というか、書けません。他の方の二次創作ではそういうのは気にせず読めるのですけど、私自身が書くとなると、そこはこだわってしまいます。
オリジナル作品ですと、宿題がたくさんたまっていますね。催眠ものとか正鵠とか精霊とか、あとは青川さんとか。
とにかく、何か書きます。書きたいです。



それでは今年もよろしくお願いいたします。
かおるさとーでした。

虫とか記号とか文章とか

もうすぐ9月も終わりですね。

こんにちは、かおるさとーです。

半年ぶりのブログで何を書いていいのかさっぱりです。
何でも書いていいんですけどね。
でも、まあ、うん、適当に。

ああ、そうだ。あの話を書こう。
我が家に巣くう虫の話。
いや、Gではなくて。アリです。蟻。



※ちょっと虫の話をしますから、虫嫌いの方は読まないでください。



今年の夏も暑かったですね。
個人的に暑さはまだなんとかなると思っています。
夏ってきらいじゃありませんし。
ただ、夏は虫が多い季節でもあります。それはちょっといや。
虫嫌いかというとそういうわけでもないんですけど、アリがちょっと嫌です。
食べ物をほんの少し外に出しているだけでたかってきますからね。
コンセントの穴とか窓の隙間からどんどん部屋に侵入してくるんです。
これは田舎特有のことなのでしょうか。それとも我が家の庭が木々の生い茂る密林のような庭だからでしょうか。たぶん後者だ。
部屋を綺麗に片づけて、PC周りも綺麗に掃除して、自分の部屋で食べ物なんてまったく食べないようにしているのに、それでも集団で入ってくるアリの大群。
ベッドを通り道にしたりしますから、これはストレスになります。
気付かずに薄着で横になっていると、体を這いまわられることになります。
もちろん私の体がおいしいからたかるわけではなく、ただそこに現れた障害物を乗り越えようとしているだけなのでしょうけど。

その点、冬はいいですね。
冬にはほとんどの虫がいなくなりますから、それはそれは快適に過ごせます。
寒いのは苦手です。冬の寒い日にタンスや戸棚の角に足の小指をぶつけたときの痛さは尋常ではないですよね。あの痛みはこの世で嫌いなものベスト5に入ります。それだけじゃなくて、肌を刺すような痛い寒さはとっても苦手です。
そういうわけで、冬って正直好きじゃないのですけど、虫がいないというのはすばらしいことですし、もしかして:好きになれる?
まあ、今しばらくの辛抱です。



※虫の話終わり



全然違う話をしましょうか。

小説を書いていると、絵文字や記号の扱いが気になることがあります。
絵文字や記号って、今や当たり前のように使われていますけど、元々は日本語にないものなわけですから、あまり小説では使われてこなかったと思います。
とはいえ「?」や「!」くらいは、物書きさんの間では戦前からそこそこポピュラーなものとして認識されていたのではないかと思います。明治や大正の作家さんも普通に使っていますからね。これは明治以降、欧米の言語や文学に影響されたためではないかと考えられます。
ここで話題に取り上げるのは、現代のエンターテインメント小説やライトノベル、WEB小説で多く使われる記号についてです。
「♪」や「♡」のような記号を会話文末につけるという方法があるわけです。
おそらくは漫画のフキダシなどで使われていたのが小説でも使われるようになったのだと思いますけど(ちゃんと調べたわけではないのでほんとのところは知りません)、これ、読者には結構好き嫌いがあるらしいんですよね。
私はおもしろければなんでもいいやという考えが強いので、こういう記号が使われていても全然気にしない方で、むしろそれが効果的ならもっとやってもいいんじゃないかとさえ思うのですけど、読者には様々な方がいて、当然これが気に入らない人もいるわけです。
実のところ、いまどきのライトノベルではハートマークなんてあまり使われていないように感じるのですけど、美少女系の官能小説とかエロ漫画とかでは結構頻繁にハートマークが使われるんですよね。好きとか気持ちいいとか、そういう情感を表すのに便利で分かりやすいですしね。そういえばエロゲーではどうなのかな。あんまりやったことないからわかりませんけど、ああいうのでも多く使われるのかな。視覚に訴えてきますしね。
でも、そういうのじゃなくて、昔からの一般的な小説を好んできた人にとっては、ハートマークのような記号は異質に感じるのでしょう。さすがの漱石や鴎外も、ハートマークは使ったことないと思うし。というか昭和以前の小説では読んだ覚えがないし。あ、でも私が知らないだけで「♪」や「☆」はあるのかもしれません。いや、どうかな。やっぱりないかな。いつ頃から使われ始めたのかな。
で、私はハートマークは使ったことないけど、「♪」はたまに使います。音符から視覚的に軽妙さや楽しそうな感じが伝わればいいなと思って使うのです。
しかし、この前「ハートマークとか音符とか記号使いまくるのは馬鹿っぽくて受け付けない」という意見を目にしまして、もしかしたら私の文章もそういう風に見られたりしているのかな、とちょっと顧みました。自意識過剰でしょうか。
でも、もしもそういう記号の有無がかえって読みにくさを助長させているのだとしたら、それはやっぱり控えた方がいいのかなとも思うわけです。元々深いこだわりがあって使っているわけではありませんし、基本的には読みやすさを第一に考えた文章を書きたいです。
あ、どちらが上とか、そういう話ではありませんよ。プロの有名な作家さんが書く作品ならいざ知らず、芸術性とか文章力とか、そういうものを無理に意識する必要はないのではないでしょうか。背伸びしても楽しくないですし。でも読んでくれる人がいるなら、読みやすさだけは大事にしたい。
個人的には嫌いじゃないというか、むしろ好きですけどね、ハートマーク。「あっ、だめ、だめなの、あっ♡ ああんっ♡♡♡」とかそういうの読んでるとだんだんおもしろくなってきますよね(台無し)

ところでハートマークは環境依存文字ですけど、八分音符はそうじゃないんですよね。音楽記号の方が市民権を得ているのでしょうか。そういえばテレビのテロップでもハートマークや音符は頻繁に使われていますけど、ああいうのが浸透したのっていつごろからなのでしょうね。そうやって考えていくと興味が尽きません。



そういえばツイッターで「物書きにとって文章とは規定量まで文字数を削っていく作業で、素人にとっての文章は規定量まで文章を盛る作業だ」というつぶやきを見かけました。
私も規定量まで文字数を削ったことは何度もあるので、この観点から見れば私も素人ではなくきちんと物書きなのかなと思ったのですけど、これが正しいかどうかは別として、このつぶやきを見てちょっと考えたのは、「素人という言葉に甘えてはいけないのではないか」ということでした。
私はプロではありません。しかし小説を書く、文章を書く、そういうことをもう20年近く続けています。
WEB上で自作小説を公開してからは10年近く経ちます。
玄人ではないかもしれないけど、少なくとも素人ではないのかもしれないと、思ったのです。
どういえばいいのでしょうか、高校野球や大学野球で3年間4年間、さらには社会人野球で10年間野球をやり続けてきた人を、はたして素人と呼んでいいのかとか、そういう話に近いです。
「プロ以外は素人」という考えならともかく、私の認識では素人とは「まったくその分野に馴染みのない、経験のない人」というものなので、そういう観点では自分のことを素人とはとても呼べません。アマチュアではありますけどね。
「自分はまだまだだ」と思うことは大事ですけど、自分を軽く見過ぎることはよくないです。これまでの自分がやってきたことを、たとえ趣味の範囲でも、大事に認めてあげて、それに見合うように努力をするというのは、なんといいますか、私が私であるためには大切なことではないかと思うのです。
曲がりなりにも何年も文章を書いてきたのだから、これを今後も続けていくのなら素人だなんて思わず、しっかりと書けるものを書いていかなければならないし、書いていきたいと思うこと、それを願うのはきっと私にとって今後の背骨になるのではないでしょうか。
そんなことを、ツイッターを見ながら思ったのでした。
うん、やっぱり文章にすると、ある程度考えや気持ちが整理できますね。



まだ自作は書きあがりませんが、pixivに古典部の二次創作をアップしました。
興味がある方はどうぞ。短いですが、奉える同棲18禁話です。

『二度寝をするには遅すぎる』

11月30日に発売される新刊・『いまさら翼といわれても』も楽しみですね!(12月の〈小市民〉シリーズ新作『巴里マカロンの謎』も)

かおるさとーでした。

5年も経ってしまったという事実

こんにちは。こんばんは。かおるさとーです。

長らく停滞していた自サイトを更新しました。
サイト開設5周年だそうですよ、奥さん。(誰や)
ちょっとした小話をアップしましたので、興味がある方はどうぞ読んでみてください。

『虚と実』

タイトルは例によって適当です。



当たり前のように文章を書いていたのが、当たり前のように書けなくなってしまっているような気がします。
もちろん気が向けばまた書けるようになるのでしょうが、じゃあいつ気が向くのか。
自分で気を向かせる努力をしなければだめじゃんと。
そういうわけで、ちょっとでも、ちょっとずつでも書いていこうと思います。
今年はもうちょっといろいろ更新できるようにしたいですね。
さすがに1年間サイト更新していないのには驚いたかおるさんでした。



そういうわけで、またよろしくお願いいたします。

かおるさとーでした。

『いまさら翼といわれても』・感想

こんにちは。こんばんは。かおるさとーです。
だいぶ遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。



今回は、〈古典部〉シリーズの新作『いまさら翼といわれても』の感想記事です。

当然のようにネタバレをしているので、未読の方はこの先の文章を読まないことをオススメします。



昨年12月と今年1月に発売された野性時代146号・147号に、〈古典部〉シリーズ最新作『いまさら翼といわれても』の前後編がそれぞれ掲載されました。
毎度のことなのですけど、古典部の短編が掲載された野性時代はネットで高く取引されるらしく、146号なんてすでにAmazonで定価の5倍近くの値がついております。元々発行部数の少ない雑誌であることに加えて、なかなか新刊が出ないシリーズなので、こういうことになってしまうわけです。どうにかしてくださいKADOKAWAさん。

それでは感想です。







今回のお話はおもしろい……というより、興味深いお話でした。
これまでの短編では、形式の違いはあれど、スポットを当てられる対象は折木奉太郎でした。伊原摩耶花視点の話、『鏡には映らない』でも、話の中心は奉太郎でした。
しかし、今回スポットを当てられたのは、千反田えるでした。
これまでにも度々千反田さんの背景にはスポットが当てられてきたのですけど、それはどこか奉太郎が触れられない遠い場所というか、別の世界の話のように描かれてきたのですね。『遠まわりする雛』で奉太郎はその世界の一端に触れましたが、あくまでそれは奉太郎の世界と深く交わることはないものでした。
基本的にそれは変わらないと思います。しかし、千反田さんがいる場所が、その立ち位置が変化するとしたら? これから歩むはずだった道筋が変化する、そういう可能性もあるのだとしたら?

高校生の頃の先行きは不安定で、なかなか未来は見通せないものです。もちろん、進路を早くから決めていて、迷いなく進む人もいるのでしょう。ただ、そうじゃない人の方が多いと思います。私もそうでしたが、とりあえず進学とか、とりあえず就職とか、そういうおおまかな道筋だけを選んで、高校を卒業していく人は結構います。
千反田さんにはそういう迷いは、これまであまり見られませんでした。たぶん高校に上がる前にそういう地点は過ぎ去ってしまったのだと思います。もちろん細かい部分で迷いはあるでしょうが、自分が進むだろうおおよその道筋、その方向に迷いは無いように見えます。
そんな千反田さんがもしも自分の境遇に迷い、戸惑うことがあるとすれば、一本道だと思っていた道筋が突然枝分かれしてしまった時ではないか。今回のお話はそういう話でした。

そうあることが当たり前だったものが――指針や基盤だと思っていたものが、突然なくなってしまったら、戸惑わずにはいられません。奉太郎が省エネ主義を脅かされることに戸惑ったり、里志が摩耶花の存在に何度も遠まわりしたり、誰もがそういうある種の核を持っています。ましてや、彼女のように、人生の根幹にかかわる指針がなくなってしまったら……苦しくないわけがありません。

作中では奉太郎がそのことを「自由になった」と表現しています。言葉だけとらえれば、とても前向きに感じられる言い方ですが、ここでは後ろ向きなニュアンスを含んでいます。自由という名の不自由に、自由になることの苦しさに、千反田さんが何を感じたか、奉太郎には窺い知ることはできません。本当は彼がかってにそう思っているだけで、彼の想像はおおよそ間違っていないはずなのですが、奉太郎はいつも他者に対する理解を一歩引いてとらえています。
その引いた一歩分が、きっとあの蔵の扉一枚に表れているのでしょう。
その一枚に優しさを感じたりもするのですが、友達甲斐というにはあまりにも……。
本当に、好ましいふたりです。

今回の千反田さんの行動は、折木さん風に言うなら、千反田さんの生活信条に大きく反する行動です。「甘えるな」と言われるだろうことを千反田さんが自分からやってしまうというのは、本当に大きく反しています。
しかし、生活信条の指針や基盤そのものが揺らいでしまったら、思わず反してしまうのも致し方ないのではないかとも思います。
それでもそのことを最低だと、軽蔑されることだととらえているのは、揺らいだ指針に沿う以外の生き方を持たない千反田さんらしいことだと思いました。
コーヒーだって砂糖とミルクで甘くなるんだから、苦い気持ちを抱えるくらいなら誰かにちょっとくらい甘えてもいいんじゃないかと思ったりもするのですけどね。誰かに。



気になる点をいくつか。

なぜ千反田さんの父・鉄吾さんはあの日、千反田さんに「自由に生きろ」と言ったのか。
親心と言えばそうなのかもしれませんが、なぜこのタイミングなのか、それがわかりません。文理選択は1年生の時にするので、決定的なものではないにせよ、進路を固めるための準備はもう始まっています。それなのに「お前の好きな道を選べ」とこの時期に言うのは、少々遅い気がしなくもないです。
志望校はまだ決めていないでしょうから遅すぎるわけではありませんが、少し急な話だなあと思いました。「千反田家のことはなんとかするから考えなくてもいい」とまで言うに至ったなんらかの理由があるのでしょうか? 単にすれ違った親心から生まれた言葉なのか、もう少しはっきりした理由があるのか、まあ情報が少なくて何も言えないのですが。

他に気になる点としては、やっぱり摩耶花の態度の変化ですね。
奉太郎に対しては厳しいといいますか、時に苛烈にすら思う態度をとってきた摩耶花は、『鏡には映らない』を経て、どこか柔らかくなった印象を受けます。
こういう変化を見るのも古典部の楽しみ方のひとつだと思いますが、奉太郎視点でも変化がなんとなく読み取れるのは、なんだかおもしろいし、うれしいですね。それにしても「はい。」はよかった。うん。

他にもコーヒーの話とか冷やし中華の話とか将棋の話とか、いろいろ気になる点を挙げるとキリがないのですけど、すごく気になっているのは前編の序盤に出てきた言葉。
……地学準備室?
たぶん間違いなのでしょうが、アニメに引っ張られてつい書いてしまったのでしょうか米澤先生。ものすごーく気になりました。



というわけで、いまいち言いたいことがまとまっていないのではないかというような記事ですが、『いまさら翼といわれても』の感想でした。
今回、十文字かほさんの出番がありませんでしたが、前編でちょっとだけ名前が出てきているのでかおるさん的には満足です。摩耶花はかほさんのことを「十文字さん」と呼ぶ。ここ大事。正月のバイトの時にメアドと電話番号を交換したのかもしれないとか考えると楽しいです。超楽しいです。



今回の話を読んで、なんとなく後日談のようなそうでもないような二次創作をしたいなあという欲が高まってしまったので、近いうちに書きます。たぶん日常の謎になります。



それではそろそろこの辺で。

かおるさとーでした。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。